在宅勤務か出社か。常にもやもやするこの問題。
何が問題なのか?考えてみたい。
★★★
わたしの職場では、在宅勤務をするかどうかは、かなりの範囲でその部署の判断にゆだねられている。ある部署では出社が義務付けられているし、多くが在宅勤務をしている部署もある。私の部署は在宅勤務をしている人が多い。確か、月に6回程度出社すればよいとの部署でのルールになっている。
そのような状況で、わたしは毎日出社をしている。仕事柄、出社をしないとまともな仕事はできないと思っているし、出社して顔を見せるだけで信頼感があがるのであれば(心理学的にそうだ)出社したほうがよいという、あざとい考え方もある。わたしの仕事では、在宅勤務でできることは限られていて、出社しないと意味はないと思う。
しかし、そういうのは裏の事情(=本音の部分)である。
表向き(=建前)は在宅勤務をしてよいから、できるのであればどんどんしてよい。私以外の人は、在宅勤務をよく利用をしている。
わたしはこの状況を、ずいぶんと不公平に感じているようだ。自分でも確証がもてないけれども、私と同じ仕事をしている人が、あまり出社しないことに、わたしはもやもやとしたものを抱えているらしい。
「出社してもやることがないので」
「上司が在宅勤務をしてよいというので」
「夫がいるので」
という理由で在宅勤務をする。
まったく。
私の気持ちは、「少しは仕事しろや・・・」である。しかしながら、それで間に合っているのであれば言えないなとも思う。
だけど、問題なのはちゃんとした方針を示すことができていない会社だよね?
・在宅勤務をしてもよい
・仕事の状況的にそれが許されている
・周りで困っている人がいない
それであれば、在宅勤務をしてもよいではないか。「そうはいっても、なんかね・・・」と感じているのは、同調圧力であろうか?
自分だけが一人で働いてしまっている気持ちになるから、自分の孤独感を紛らわすために、その人に出社してほしいのか?
チャットgptに聞いてみたところ以下のような回答でした。なるほど。自分が出社を選んで勤務をしている以上、それに誇りを持つというのは重要な視点かもしれません。
「他の人が在宅勤務している間、私は頑張って出社している」という感情には、自己犠牲的な側面も含まれているかもしれません。それが評価されない場合、フラストレーションが生まれるのは自然なことです。
内省的な問いかけ:
自分が出社を選ぶ理由は何か?
その選択が仕事のためであり、自分の価値観に基づいているなら、それに誇りを持つことが大切です。
在宅勤務を選んでいる同僚に対する感情をどう整理するか?
「自分の選択」と「他人の選択」を切り離し、必要以上に気にしないよう意識する。. 職場の文化やコミュニケーションの欠如
「在宅勤務でも仕事が回っている」という事実があっても、職場で共有されている暗黙の期待(例: 出社=仕事へのコミット)が影響している可能性がある。
なるほど。。
仕事へのコミットの欠如だと思われる可能性があるということですね。
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