図書館で本を借りて、公園で読みました。天気の良い日に公園のベンチで、パン屋で購入したパンを食べながら。西日がきつかったですが、思いがけず良い時間でした。日光を浴びることは、精神的にもとても良いはずです。だから、なるべく日光を浴びるのです。
図書館で出会ったこちらの小説。タイトルに惹かれました。
1時間半くらいで読んだでしょうか。タイトル通り、40歳の女性が未婚のまま妊娠してどうしようか…お腹の子を産むのかおろすのかと、職場や家族の状況に挟まれながら、悩むストーリーです。良かった。なんだか希望が持てる話です。
最終的には、戸籍上の父親を男友達が申し出ててくれて、助け合いながら生きていく。婚姻届けという紙切れ1枚にとらわれて生まないだけなんて馬鹿げている。将来的には、戸籍の父、血縁的な父、というのが誰であろうと、どのようなかたちでもで育てていければいいじゃないか、というハッピーエンドでした。わたしも賛成です。そのような社会であれば、良いと思います。
★★★
最近見ているドラマ「わたしの宝物」は、夫以外の男性との子供を、夫との子と偽って産んで育てる女性が主人公です。『托卵』というらしいです。カッコウがやることのようですが。
全然共感できないですね。主人公が「悪役」とされ、夫は被害者意識が強く、少々うんざりしてきました。といいつつも、毎週欠かさずに録画して見ているのですが…いいじゃないか、別の子を育てたって。と思います。
そんなに抵抗感がないのは、一時期はまっていたドラマ「Game of Thrones」のサーセイ・ラニスターが結構好きなのが影響しているか…?サーセイは、王と結婚しているが、双子の片割れであるジェイミーと子ども(近親相姦)を王の子と偽って育て、その後、王を殺害している。でも憎めないのですよね。切ない思いを本人が持っていることもあり感情移入してしまう。そんなんだから、別の人の子どもを偽って育てたったいいんじゃない、って思うのですが。それにはそれぞれ事情があって。
一方で、人類学的観点から、社会を存続していくことに、そんな好き勝手やってはいれないものでしょう。
『四十歳、未婚、出産』の終盤で理想とされているような、血のつながりがあってもなくても、社会で子どもを育てていこうということは、人類的に(種の保存を考えるような人類の本能的なものには)なかなか難しいんじゃないかと思います。本能ではなく理性でコントロールできる社会であればそれができるのかもしれませんが。そして、それができるのが、成熟した社会ということなのかもしれませんが。
誰の子どもだろうが、社会で育てていければいいじゃないかという社会はあるのかもしれないけれども、少なくとも現代社会では、伝統的共同体が引き続き根付いているような社会では、共同体の最小単位は家族であり、家族であるということは血縁関係があるということなのです。男性は、常に子どもが自分の子どもかを問いつづける存在だということですが、このような自分が所属している共同体の根拠を求めるものの一つに血縁関係があげられるのであれば、それを根元から揺るがすことに、『托卵』はなるということでしょうかね。
もちろん、再婚して連れ子がいて育てるとか、家を存続させるために養子をとるとか、そういうのもあります。しかしながら、「愛」によって結びついていると思われる私たちの家族では、血のつながっていない子どもを育てるというのは生理的に受け付けないような事態なのでしょう。
まあしかし、LGBTQが社会的に受け入れられつつあり、それが「政治的な正しさ」を持っている社会になればそんなことも徐々に浸透してくるのかもしれません。
さて、愛により家庭を気づくことはできるのか?という点は、内田樹氏の言葉が非常に最近、刺さっている。
つねづね申し上げているように、だから家庭は儀礼を基礎に構築されるべきなのである。
家庭を愛情や共感の上に築こうと願ってはならない。
愛情や共感は「儀礼」についている「グリコのおまけ」のようなものである。
-内田樹の研究室ブログより-
それにしても、ドラマの展開がスローで時に早送りしながら見ています。田中圭が女々しくていやになりますが、それでも見続けてしまうのです・・・主人公には冬月くんと幸せになってほしいなと思いますが、ずいぶんと「不倫する女は悪」という構図ができているので、それもなさそうです。最終回まで、楽しんで視聴したいと思います。
それにしても、久々に見返してみて、サーセイ・ラニスターは、めちゃめちゃ悪女ですね…
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