五十歳になった今でも、あの春のことははっきり覚えている。
四十歳の私は、自分のキャリアがどこへ向かっているのか、まるで分からなくなっていた。
長年この会社で働いてきた。営業部門にもいたし、事業部にもいた。役員秘書としての年月も長かった。仕事はそれなりにこなしてきたけれども、自分はこれで食べていくんだ、という確固としたものがなくて、悩んでいた。専門性がないということか。
「これが私の仕事だ」と胸を張って言えるものが、なかった。
絶対に営業向きではない自分。重要な仕事でどこでも必要なものとわかっているけれども、自分がものを売ることが得意とは思えないし、社内の駆け引きも難しい。かといって、事業サイドにも興味は持てなった。これから何でご飯を食べていくべきか、ちゃんと考えないといけないと差し迫っていた。
組織改編は、そんなタイミングで起こった。たまたま、私の仕事が総務経理部に組み込まれたのだ。別に、経理の仕事をするわけではないけれども、経理と同じ部署になるということ。私は簿記二級を持っている。だがそれは、何度も不合格を重ね、やっとの思いで取った資格だった。数字は苦手だという意識の方が、ずっと強い。それでも周囲は不思議なほどあっさり言った。
「Sさん、簿記持ってるし、経理に興味あるんでしょ?」
「英語もできるし、ちょうどいいじゃない」
“ちょうどいい”。
それが、私が経理を意識した初めてのきっかけでした。
この席から、私の人生が大きく動き始めるとは、そのときの私は、まだ知らなかった。
その日は、 課長に会議室へ呼ばれ、何でもない顔で告げられた。
「Sさん、来月から海外子会社、行ってもらえますか」
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
「……海外、ですか?」
「うん。現地の経理体制がちょっと混乱しててね。英語できるし、簿記もあるし、ちょうどいいから」
また、その言葉だった。
ちょうどいい。
だが今回は、その軽さの裏に、はっきりとした重みがあった。
帰りのデスクで、私はしばらくキーボードに触れないまま座っていた。
海外。しかも経理として。
不安はあったが、不思議と逃げたいとは思わなかった。むしろ、ここで踏みとどまらなければ、私のキャリアはこのまま曖昧なまま終わってしまう気がした。
現地では、初日から洗礼だった。
決算資料は荒れており、勘定科目は統一されていない。
締め切りは迫り、質問すれば英語の専門用語が容赦なく飛んでくる。
私は必死にノートを取り、夜はホテルで簿記のテキストを開いた。
かつて試験勉強で覚えた仕訳や原価計算の知識が、ようやく現実の業務とつながり始めていた。
さらに、英語についても衰えないように、日々ブラッシュアップしていかなければならなかった。通常の業務と会計の勉強に加えて、毎日1時間は音読をした。日々英語漬けの環境にいても、音読することは欠かせない。シャドーイングと音読は、私の語学学習の基礎であることは、英検1級を取得した時に確信した。
四十歳。
これから新しい専門を築くには、決して若い年齢ではない。
周囲の同世代はすでに「その道の人」になっている。
経理は、ずっと経理畑にいる人がやるものだった。それなのに私はようやくスタートラインに立ったばかりだった。
周りに後れを取っているのも事実で、わかっていた。
それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。というか、逃げれない。だって、私には何もなくて、専門性もこれから身につけなければいけないのだから。
――ここで逃げたら、私は一生、自分の仕事を作ることができない。これから生きていけない。
そう思った。支えになったのは、読んでいるちきりんのブログに書いてある「キャリアに一貫性なんて無用」というエントリー。一貫してなくてもいいんだ、今からでも始めることができるんだ、そう思うしかない。
現地のオフィスでは、毎日が戦場だった。
会議では専門用語が飛び交い、帳簿の数字が頭の中で絡まっていく。
分からないことだらけで、何度も自分の無力さに打ちのめされた。
私はノートを一冊用意し、分からない言葉、処理、考え方をすべて書き出した。
昼休みも、帰宅後も、休日も、そのノートを開き続けた。
ホテルの小さな机の上には、USCPAのテキストと決算書、付箋だらけの資料が積み重なっていった。
眠気で文字がにじむ夜もあった。
それでもページをめくる手だけは止めなかった。
「私には、これしかない」
そう思っていた。
私は才能があるわけではない。
数字が得意なわけでもない。
ただ一つ、やめなかった。
同僚が安定したポジションで仕事をしている話を聞くたび、結婚して穏やかな家庭を築いていると報告があるたびに心が揺れた。
私は何をしているのだろうと、情けなくなる日もあった。そもそも、働くことに向いていないのか、ビジネスをやるような人間ではないのにと。
それでも翌朝には、また電卓を叩き、仕訳を確認し、英語の専門書を開いていた。
少しずつだが、確実に、分かることが増えていった。
ある日、会議で財務処理の流れを説明できたとき、周囲の視線が変わったのを感じた。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに灯った。
――私は、ここで生きていけるかもしれない。
その灯は、USCPAの勉強へとつながり、やがて合格という形になって返ってきた。
合格通知を手にした夜、私はひとりで静かに泣いた。
悔しさでも、不安でもない。
自分が自分を裏切らなかったことへの安堵だった。
あの頃の私は、キャリアに悩みながら、答えを探していた。
だが今なら分かる。
答えは、悩みながら歩いたその時間そのものだった。
――ああ、これは“仕事”なんだ。
頭の中で、何かがカチリと音を立てて噛み合った気がした。
半年後、本社からの評価は思いのほか高かった。
「Sさん、ファイナンスとして筋がいい」
「USCPA、挑戦してみたら?」
その言葉に背中を押されるように、私は勉強を始めた。
仕事と勉強の両立は簡単ではなかったが、初めて「自分の専門」を手に入れたいと、本気で思った。
そして三年後。
合格通知の封筒を開いたとき、私はひとり、声を出さずに笑っていた。
――どうやら私は、経理として生きていくらしい。
第2章 十年後の私
五十歳の今、私は経理部長として部門を率いている。
会議室の大型モニターには、AIが自動生成した決算予測が映し出され、若手社員たちが真剣に議論している。
かつて数字が苦手だと思っていた私が、財務戦略を語り、役員と向き合い、海外拠点の経理を統括している。
まさか、自分がここまで来るとは思っていなかった。
だが、確かに言える。
私は天才ではない。
ただ、逃げなかっただけだ。
知らないことばかりで、恥もかいた。
必死に学び、AIと向き合い、変化についていった。
その積み重ねが、今の私をつくっている。
キャリアに悩んでいた四十歳の私に、今ならこう言える。
――遠回りでも、ちゃんと道になる。
経理という仕事は、想像以上に奥深く、そして面白い。
AIと共に働くこの時代、私はまだ成長の途中にいる。
年収も上がり、仕事は忙しいが、毎日が充実している。
ハッピーだ。
それが、何よりの答えだった。
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