睡眠小説

第1章:目覚めのルーティン 

 午前5時55分、カイの寝室にやわらかな光が差し込んだ。
 自動カーテンが静かに開き、朝日の波長を模した照明が、部屋の空気をあたためる。

 彼はまだ眠っていたが、左手首に巻かれた睡眠管理デバイス〈SOMNO-11〉が、起床タイミングを判断していた。
 深部体温、呼吸数、脳波の揺らぎ。全身のリズムを読み取ったうえで、最も“整った”目覚めの瞬間が選ばれる。 

 「起床スコア:83」
 「深睡眠:3時間18分」
 「覚醒バランス:安定」

 カイのまぶたがゆっくりと開いた。
 意識が静かに浮上してくる。
 目覚めたときの感覚──重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい“自分”がそこにいる。

 シャワーを浴びたあと、α-トリプトシェイクを一口。
 朝に摂ることで、夜のメラトニン合成が促される。
 キッチンのAIアシスタントは、今日の快眠維持スケジュールを提示してきた。

「本日も整った一日を。日没は18:04。理想入眠時間は21:36です」

 朝食は、“消化負担指数”をもとに調整されたプレート。
 味よりもリズム。カロリーよりも恒常性。
 すべては、夜に向けての“予備睡眠”の一部だった。

 外に出ると、街全体がゆるやかに動いていた。
 車の音もなく、看板も静かに光を落とすだけ。
 騒音もネオンも、この時代には存在しない。

 “活動”はすべて朝に集中している。
 夕刻には街全体が穏やかに沈み、夜は“社会全体が眠る時間”として厳密に管理されていた。

 通勤列車のなかでは、乗客のほとんどがイヤホンで“入眠サブリミナル”を聴いていた。
 夜の眠りに備えるため、朝から副交感神経を整える。
 カイもまた、自動的に再生される波音に耳を傾ける。

 ふと窓を見やると、今週の「スリーパー・オブ・ザ・ウィーク」の顔がビルのスクリーンに映っていた。
 快眠スコア97。深睡眠4時間半。社会的評価上位1%。
 その人物が言う。

 「眠りは、最も賢い選択です」

 カイは、ただ黙って目を閉じた。
 この世界では、眠りこそが自己管理の最終形とされている。
 眠れないことは、自己制御の失敗とみなされる。
 だから人々は、今日もよく眠るために、朝を選ぶ。

 彼もそうだった。
 ——ただ、最近になって、ふと、思うことがあった。
 「夢って、スコアに入っていないよな」と。

 その問いが、静かに彼の中に残ったまま、列車は無音の駅に止まった。

かつて、人々は眠りを軽んじていた。

成功のために、自己実現のために、学び、働き、戦い続けることが美徳とされた時代。
1日4時間睡眠で働くCEOは称賛され、徹夜明けの若者が「努力の証」としてメディアに取り上げられていた。
その代償は大きかった。
鬱病、不安障害、認知機能の低下、免疫異常。
静かに崩れていく社会の底に、常に**「眠らないこと」**が横たわっていた。

21世紀半ば、ある転機が訪れる。
睡眠科学の飛躍的進展により、人類は気づいてしまったのだ。
**「眠りは、ただの休息ではない」**ということに。
それは、記憶を統合し、感情を整え、免疫を強化し、創造性を再起動する、人体の中枢的な知的営みであった。
そして何より、「よく眠る人間は、病まない」「社会は安定する」という確かなデータが、人々を動かした。

政府は「国民快眠戦略」を打ち出し、
企業は「睡眠スコア報酬制度」を導入し、
学校では「睡眠訓練」と「夢の記録」が必修科目となった。

社会は、こうして再設計された。
すべての建築、制度、経済活動、文化、娯楽までもが、**「より深く、より質の高い眠りを得るために」**最適化された。
人類はついに、朝を中心とする生活様式に辿り着いたのだ。

これが、「快眠至上主義」と呼ばれる時代である。
——眠ることを最も大切にすること、それは、人間であり続けるための最後の知恵だった。

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この記事を書いた人

英語、登山、旅行、考えること

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