映画『国宝』鑑賞  ──血と芸の宿命を背負った男の、美しくも過酷な生涯


週末に、吉沢亮主演の映画『国宝』を鑑賞してきました。上映時間は実に2時間55分。観終わった時、正直なところ「お尻が痛い……」と感じました(笑)。でも、それすらもこの作品の密度の濃さを物語っていたように思います。

劇場はほぼ満席。歌舞伎を題材にした映画がこれだけの観客を集めている事実に、作品への関心の高さと、今あらためて「伝統芸能」が注目されている空気を感じました。


あらすじ:任侠の血を引く少年が、芸に殉じて「国宝」となるまで

物語の主人公・喜久雄は、九州・長崎の任侠の家に生まれます。15歳の時、父を抗争で失い、孤児となった喜久雄は、上方歌舞伎の名門家元 花井半二郎(渡辺謙)に引き取られ、彼の息子 俊介(横浜流星*と共に芸の道を歩み始めます。

才能に恵まれた喜久雄は、次第に俊介をしのぐ存在となり、名作「曽根崎心中」などの舞台で喝采を浴びます。しかし、実の子ではない喜久雄に代役の座を奪われた俊介との間には、見えない亀裂が生じていきます。

やがて、芸の世界で名声を得た喜久雄にも、任侠の出自や私生活のスキャンダルが影を落とし始め、やがて舞台から姿を消すことに——。

それでも彼は、再び芸と向き合い、捨てた家族とも向き合い、人間国宝として芸の頂点に立ちます。捨てた娘から「父とは思えない。でも、あなたの舞台は美しかった」と告げられるシーンには、胸が締めつけられました。


吉沢亮の存在感──美しさの奥に宿る「業」

吉沢亮さんの演技が、本当に素晴らしかったです。彼が演じた喜久雄は、ただの天才ではありません。血に縛られ、芸に殉じ、愛されず、なお舞台に立ち続けた「孤高の存在」でした。

若い頃の妖艶さ、壮年期の重み、そして老いてなお消えない美しさ。台詞よりも背中と沈黙が語る。そんな演技でした。女形としての所作の美しさ、そして舞台裏で見せる無骨さの対比も見事。芸の光と影、その両方を体現していたと思います。


『昭和元禄落語心中』との共通点──芸の継承と孤独

映画を観ながら、自然とアニメ『昭和元禄落語心中』が思い出されました。どちらも、芸に人生を捧げた男たちの孤独と美しさを描いています。

師弟関係の緊張、芸のために「個」を押し殺す苦しみ、そして、老いてなお芸に囚われ続ける哀しみ。喜久雄と俊介の関係は、八雲と助六の複雑な絆とよく似ています。

また、「血を引いていない者の方が、芸に選ばれる」という逆説も共通しており、芸の世界の非情さが際立っていました。


『覇王別姫』との共鳴──性と芸の境界が崩れるとき

さらに、チェン・カイコー監督の名作『覇王別姫(さらば、わが愛)』との共通性も強く感じました。あちらは京劇、こちらは歌舞伎。文化は違えど、女形という存在が抱える「性の曖昧さ」と「芸への没入」の深さは、共通するテーマだと思います。

舞台の上では女性を演じ、舞台の外では男性として生きる。その境界線が次第に曖昧になっていく苦しみ、そしてその曖昧さこそが芸の美を生むという皮肉。『国宝』はそれを、過度な説明なしに、所作と表情だけで伝えてきます。


おわりに──芸に生き、芸に死す。それでもなお舞台に立つ

『国宝』は、芸の世界に生きるとはどういうことか、その極限を描いた作品です。血を超える才能、家を継げない苦しみ、そして舞台だけに生きるという潔さ。

吉沢亮さんの美しさは、単なる容姿ではなく、「芸に殉じた男」の生き様そのものから滲み出るものでした。

長時間の映画でお尻が痛くなっても(笑)、その痛みすら「芸の重み」として受け止めたくなる。そんな、濃密で崇高な時間でした。

伝統芸能に興味のある方はもちろん、「芸に生きるとは何か」というテーマに関心のあるすべての人に、おすすめしたい一作です。

このようなテーマは、見る人を惹きつける。だからこそ、繰り返し題材となるのでしょう。


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この記事を書いた人

英語、登山、旅行、考えること

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