サービス過剰な仕事をしていたのではないか、と振り返る。

自分は仕事の面では無駄なことが嫌いな傾向があるし、生産性向上だとか効率化だとか言っておきながら、
なんでこんなに無駄が多いんだろう、と周りを見ながらずっと思っていました。

この、AI大活用時代になっても、人々が事務作業に苦労している点。なぜ?と。

でも最近になって、それってそのまま自分のことで、
私がやってきたことは過剰にサービスしすぎていただけなのではないか
そう気づいて愕然としました。

こういうことは、渦中にいるときにはなかなか見えない。

私の仕事は、ある種の「面倒見」的なところも範疇に入っており、面倒を見る、気が付かないところによく気が付く、気が利く、という言葉に反映されるような細かい仕事をやって、満足感を得ている人もいるかもしれません。そして、それができると褒められる、助かったといわれる、といったたぐいのことがあること、否定はしません。


けれど、物事が終盤に差しかかり、少し距離を置いて振り返ってみると、
「あれはサービスだったんだな」
「人の期待に応えすぎていたな」
「やればいい、と思っていたけれど、やりすぎていたな」
「甘やかしすぎていたな」
そんなふうに、ぽつぽつと気づきが浮かんできます。

最近、毎日のように株価チャートを見ていて、人生を月足で見るように、全体俯瞰で見られたらいいのに、と思う。
そうすると、株価が上がっているとき、下落しているとき、とそれぞれ波があるよなとわかる。そして、下がり切ったらあがるとか、需給の関係で絶対落ちるよな、とか。

でも人生はチャートじゃないし、
仕事も数字だけで綺麗に整理できるものじゃない。
結局、体感しながらでないと、わからないものなのでしょう。

「やりすぎている」とか、「やらなすぎている」とか、
そういうバランスは、お金の使い方と同じで、振り返ってみないと、自分では測れない。

今までの私は、たぶんサービス過剰だったのだろうな。やりすぎていて、喜ばれるからそれが正解だと思っていたのだろうな。

もしそれがきちんと評価につながっていれば、「あれでよかった」と思えたかもしれない。
でも、そうはならなかった。
だから今は、「失敗だったのかもしれない」と思っている。

だから・・・結局のところ、結果がどうだったかでしか、自分の行動は評価できない。
でもその結果すら、運に左右される部分が大きいよなあ。
そう考えると、私にできるのは、ただ、運を磨くことなのかもしれない、なんて身も蓋もない答えにたどり着く。

そして、そんなのって死ぬ間際しかわからないよね。何が良かったか悪かったかなんて。人生万事塞翁が馬!?馬です、馬。来年は馬。

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この記事を書いた人

英語、登山、旅行、考えること

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