最近読んだ本の著者は、自らを「弱者」と位置づけながら、組織の中をうまく泳ぎ、生き延びるための処世術を展開しています。彼女は、「自分は強くないから、逃げながら、うまくやるしかない」と語りますが、読めば読むほど、私は「いや、あなた、十分に強いよ」と思わずにはいられませんでした。
もちろん、彼女の視点や言葉には学びが多くありました。同世代よりも少し下の感性には納得できる部分も多く、「なるほど」と感じる心構えや、ちょっとしたチップスもありました。ただ同時に、やっぱり彼女は、強者の世界に身を置いている人なんだとも感じたのです。
バイタリティを売りにした若い頃に共感
私自身のキャリアにおける最大の失敗は、バイタリティを「売り」にしてしまったことでした。
これは、私と同じだと思いました。ということは、ひょっとして大多数の人間と同じだろうか?それに気が付いたのはつい数か月前とかそのレベルです。でも、その時はそれが正しかった、というかそれしか選択肢がないように思えたし、そういう人が好まれていたのだと思われます。社会的な構造もあったのではないでしょうか?今ほどまだ人手不足が深刻化していなくて、人間に求めているのは知的なものよりも体力的なものという。だから、それが個人の選択の失敗ではなかったのだと思うけれども、それでも早めに手を打っておくべきだったのではないかと思います。それは、バイタリティに頼らない自分でやっていくための対策というか。
組織の文化が変われば、「優秀」の定義も変わる
これは、めちゃめちゃ共感した。優秀の定義って変わりますよね。あの人は優秀だと現場が言っている人と、トップが考える優秀の定義は違う。さらに言うと、トップが変わると優秀の定義も変わる。何を優秀としているか、全然違うので話がかみ合わないということなのですねえ…だから、「私たちの組織が優秀としている人材とは…」という定義が必要になるのかな。それが、VMVなどに明文化されているということなのかな。
企業が変わると「何が優秀か」の定義もまるで変わります。
1社目は「言語化せよ」「売上に貢献せよ」「困ったら上司に相談せよ」という文化。
2社目は「空気を読む」「目的は共有しなくても察し合う」「配慮と根回しを怠るな」という世界。
1社目で得た自信が、2社目ではまるで通用せず、一気に落ちこぼれた感覚。そんな経験をしたことで、人の能力なんて環境次第で「トップアスリート」にも「凡人」にもなるのだと痛感しました。
社内政治は、電気も水道もない都心での生活並みにストイック?
著者の述べる「社内政治論」は痛烈でした。
やらない選択肢はほとんどない。やるか、普通にやるか、ガチでやるか。
電気も水道も使わずに都心で暮らすレベルの難易度。
「同僚の悪口を言う社員に同調しただけで、あなたもグレー判定される」
「会議で異論を出すのは遅すぎる」
「社内の相関図を把握せよ」
平社員とマネージャーの間にある深い溝
さらに印象的だったのは、「平社員として有能な人が、マネージャーとしても有能とは限らない」という指摘。
たとえば、かつて自分が成果を出していた頃の基準で部下を評価してしまうと、部下の成長を正しく見れなくなる。そして厳しく当たりすぎて、チーム全体が萎縮していく。自分より、部下ができないのは当たり前だろうと。
「マネージャーになったら、欲しいものは自分で取りに行け」
「ロールモデルがいない?じゃあ、探しに行け」
厳しいけれど、正論です。理不尽なように見えて、それでも動ける人が昇っていくんだと思いました。
「仕事の目的を伝える」という基本の大切さ
また、「仕事を依頼する際に、目的を伝えずに丸投げすると、大抵失敗する」という当たり前すぎる話も、改めて刺さりました。
「同じ部署で隣の席にいても、言わなければ伝わらない」
このフレーズ、ぐっときました。察してほしい、ではなく、伝える努力を惜しまないこと。それが信頼される人になる最初の一歩なのかもしれません。
まったく、社内政治は無視できないと思います。でも、ちょっとそういうのにベタベタやっていると心も屋探れてくるし、もっと実力で勝負させてくれ!なんて思うのかも。それでもね…ちょっとずつ、つかず離れず、組織の人間として生きていくことが必要かな。
コメント